悲劇ではなく、経験なんだ -緊急事態宣言23日目-
昨日、一昨日でYoutubeにフリーで上がっている2本の映画を見た。
一昨日が「ジョホールバル1997 20年目の真実」で昨日が「ドーハ1993+」
どちらも当時、現地で試合を応援していた植田朝日監督による、選手・監督へのインタビューと植田さんの現地への旅(尺的には少しだけ)で主に構成されている。
先にジョホールバルのドキュメンタリーをたまたまYoutubeで見つけたので、時系列とは逆に見たが、どちらもとても惹きつけられたし、今まで知らなかった話をたくさん聞くことができた。情報に「生々しさ」がある。
先に見たジョホールバルの歓喜の話は、初めてW杯出場を決めた試合だったが、当時の選手・監督からは「とてつもないプレッシャー」がかかっていたというテンションが感じられた。
決勝ゴールの岡野さんは「これまで出場がなくて、アピールしたり、監督に何で出られないか聞きに行ったが、さすがにあの試合の延長はVゴールで『関わりたくない』と思っていた」という話や、名波さんの「PKになったら消去法で絶対俺に回ってくるから、PKになったらどうしようということばっかり考えていた」というかなり生々しい言葉が聞ける。
岡田さんは「これはもう俺を監督にしたやつが悪いと思って開き直った」という当時の感覚を語る。
おもしろかったのは、岡野さんが試合の延長に入るまでVゴールを知らなかったということと、何とレフェリーもVゴールを知らず、岡田さんがアピールに行ったそう。
現在だったらあり得ないだろうけど、自分が初めてW杯を見た前の大会がこんな風に運営されていたんだなあと、不思議な感じだった。
選手の空気感はこんな感じだったんだなあということを知られたのはよかったし、これを見てからジョホールバルの歓喜のイラン戦の延長だけ見てみたけど、最後のゴールは涙が出てくる。
そして、その流れでドーハのドキュメンタリーも見た。
ドーハの話も壮絶で、都並さんが注射を打ちまくって予選にメンバーとして参加しながらも、最後にロッカーでオフト監督に無視されて「俺は戦犯だった」と認識するシーンはとてもショッキングだ。
当時の選手が口々に言うのは、みんなコンディションがめちゃめちゃ悪い中戦っていたということ、それだけの責任感や覚悟、高揚感などで戦っていたんだなと思う。直前のダイナシティカップ・アジアカップで優勝して、W杯がリアルになったことによって、行けるかもしれない、絶対に行ってやるというものすごい精神状態だったんだろうなと思った。
ドーハの話で印象的だったのは、オフト監督の采配とこの試合の捉え方。
采配に関しては、北澤さんがなぜ出なかったのかということが選手たちの間でも話され、あのラモスさんもベンチに向かって「北澤を出せ!」と何度も叫んでいたという。なぜ出なかったのかは選手たちの間でも未だにミステリーのままなんだそう。
また、この試合の捉え方も、「あれは悲劇だったんですか?」という問いに、「悲劇というより経験」と捉える当時の選手の答えが多かったことも印象的だった。
僕はずっと「ドーハの悲劇」という史実として、刷り込まれて育ってきたわけだけど、あの「経験」が夢だったW杯をリアルに日本人が描き始めて、代表への熱が高まり、ジョホールバルに続き、日韓大会の開催へと繋がっていく。
だから、あの試合は悲劇と片付けるマイナス要素、ネガティブ要素などではなく、日本サッカーの発展の今に続くひとつのステップだったんだと、当時の選手の話を聞いていて強く感じた。
僕はあまり日本代表への愛着はここ10年ぐらいでだんだんと薄れてきて、マリノスへの愛が高まっていた。それでも、今度は日本代表というより、だんだんとJリーグやサッカー全体への愛が強くなり続けている。
日本代表というより、Jリーグ全体や各クラブや選手、各カテゴリーなどを含めた広義的な意味での日本サッカーが強くなるように、最近は願っているし、何かできないかと考えている。
94年のアメリカW杯予選を戦った選手、98年のフランスW杯予選・本戦を戦った選手たちがいるからで、彼らの歴史を閉ざしてはならないという気持ちを持って、自分の愛するクラブ以外の関心も、より強くなりそう。
彼らがいたからこそ、サッカーを楽しみ、人生が豊かになっている自分がいるんだと実感した。
今回のJリーグの中断も、マイナスに捉えるのではなく、越えるべき経験として捉えて、日本のサッカーを応援していきたい。
そして、僕の日常も、これは悲劇ではなく、越えるべき経験として振り返れるかもしれないという希望を抱いておきたい。